①ベテラン猟師の豊富な知識
これらの経験の多くは、私が20代初めの頃に、九州は宮崎と大分の両県にまたがる祖母-傾山系を中心とした広範な地域を、ある年の春から秋にかけての6か月間、雨の日を除いてほぼ毎日のよう調査して歩いた時の体験によるものである。
戦後まだ年も浅い昭和30~40年代、九州地方の山中の部落には、東北地方のように部落全体がマタギを商売にしているという所はなかったが、どの部落にも炭焼きや狩猟を生業にしているブロでベテランの猟師が2、3人は必ず居て、私の地質踏査も、このようなブロの猫師に道案内と調査の手伝いをお願いした。
独行で歩いた時もあるが、ほとんどの日程はこのベテランの猟師が道案内人として同行してくれ、この人を通じて野生動物の習性から植生、山の中の湧水の場所、野宿の仕方まで、自然界で暮らす知恵の多くを学ばせてもらった。
そしてその猟師は、単に誠実なだけでなく非常な博識で、周辺の鉱山の歴史などにも詳しく、一緒に歩きながら沢山の事を教えてもらった。
当然ながら狩猟の腕も一流で、マムシなどに出会うと、すばやく捕獲してしまうので、こちらは安心して後ろをついて行くだけで良かった。
山歩きが商売だと言っても、本職の登山家やロッククライマーとは違い、人跡未踏の斜面や深い谷を歩き回リ、断崖絶壁の岩盤露頭の直下までは行くことはあっても、それを上までよじ昇ることはしないので、持って歩く調査道具は、ハンマーとクリノメーター(磁石付きの方位計)にルーペ、プロトラクター(分度器と縮尺目盛の入ったプラスチック製の定規)、それらを入れるための調査カバンと地図、それに携帯式の高度計などが主体で、本格的なザイルやカラビナなどは持たない。
しかし、踏査のルートによっては、目のくらむような絶壁の途中に出てしまうような時もあり、そんな時はルートを大きく変えて遠回りをするか、危険を承知で、短いロープと木の根などをたよりに崖を降りる時もあり、正直、命の危険を感じる時も少なくなかった。
このような苦労もしたが、調査はつらい事ばかりでなく、時にはこんな良い体験もした。
ハンマー10話「第8話キノコの話一」にも書いたが、踏査も終わりに近づいたある秋の日、この猟師は私を待たせておいて森の中に入って行き、しばらくしてそこから出て くると、ふろしきー杯のマツタケを、毎日のようにプレゼントしてくれたのである。
毎日毎日が多量のマツタケ攻めで、この時に食べたマツタケの量は、普通一般の人が一生で食べるであろうマツタケの総量を、はるかに上回っていたことは間違いない。
そして、大自然と直接に接する生き方は、ベテランの猟師や農家の人達にとってはごく普通の生き方で、この人たちは私のようにこれらの難問に真正面から対決するのではなく、これらを上手に避けて暮らすような知恵を、本能的に身につけているのではないかと、今は思っている次第である。
②老人福祉問題
この道案内をしてくれたベテラン撒師は、20代の私が出会った当時は60才台、当時の体は壮健そのもので、かくしゃくとしていた。
すでに述べたように、若い私は、長い踏査の期間中、この猟師から多くの事を学ばせてもらった。
この期間に私が滞在・居住したのは、宮崎県の山奥にある休止鉱山の古い社宅に手を入れたもので、最寄りのJRの駅から、1日2往復のバスが通じているだけの、超がつく僻地であった。
ここは全人口でも数十人の集落で、小学校の分校や小さな診療所はあったが、この猟師は、部落から外れた山の中に、粗末な山小屋を建てて、一人で暮らしていた。
当時はまだ若く、自分の将来に何の不安も疑問も持っていなかった私は、他人であるこの猟師の将来については、正直、これっぽっちの配慮もしてあげることはできなかった。
それから何年か後、私が仙台で生活を始めてしばら く経って、風の便リでこの猟師が亡くなったと聞いた。この訃報については特別な思いは無く、豊富な知識・ノウハウが、その人と共に完全にこの世から失われてしまった、という思いに駆られた位で、それほどのことは感じなかった。
しかし、その死に方を聞いて、暗澹とした思いにかられたのは事実である。
自宅で一人さびしく、首をつって死んでいたと云うのである。誰一人身寄リもない老人は、自分が完全に「ボケ」てしまう前に、みっともない死にざまをさらすより、自分の納得できる死に方を選んだものと考えられる。
当時まだ若かった私は、将来の自分の死に方までも考えることは出来なかったが、80才を越えた今、過疎地に限らず都会にあっても、一人暮らし老人の終末・尊厳死の問題を考えるようになった、というのが本音である。日本の老人福祉問題は、これから本番を迎えることになる。